2016年6月19日日曜日

世界の民主主義は大丈夫なのか?~舛添氏辞職の見方。

舛添氏が辞職した。
世論の圧力によって、自公も動かざるを得なくなったということか?
次の選挙での影響を心配したのか?
では、選挙が目前になかったとしたら、同じ結果になったのだろうか?

なりゆきを見守っていると、
民主主義の素晴らしさを実感すると同時に、「日本の民主主義はまだまだ未熟だ・・」という思いも出てくる。

日本の民主主義の未熟さは、言い換えれば日本国民の未熟さともいえる。

国民が未熟だからいい政治家が出ない。

そういう意味では残念ではあるが、民主主義でない国に比べると、よっぽどマシだと思う。
以前、橋下氏が選挙で負け引き下がったとき、「民主主義はすばらしい」と言った。

国民が自由に意見が言えて、だからといって弾圧を受ける(殺される)こともない。

しかし一方で民主主義は、常に危うい側面も持っている。かつてのファシズムが民主主義の土壌から生まれたことも歴史上の事実だ。

ちょうどアメリカでも、大統領選挙のまっただ中だ。国論を二分する民主主義の解釈の違い。どちらの民主主義が真の民主主義なのか?

答えは出ないかもしれないが、私はジョンレノンのイマジンに答えがあると思う。
つまり、他人を攻撃する前に、自分を見つめてみる。自分の中にある理想をイメージしてみる。
そういう屹立した個人個人が集まったところに、真の民主主義があるのではないか?

これは何も、国家とか世界とか、大きな単位でのはなしだけではなく、家庭とか職場とか、身近な小さい社会でのはなしでもある。

小さな社会から大きな社会まで。社会が人間の集まりである以上、個々の人間の成熟度がその社会の成熟度を決める。

世界中の人間が、他人を攻撃する前に、自分を見つめてみる。国家とか立場とかという外的な要因を全て取り払って、素のままの自分という人間を見つめてみる。

そうしたときにはじめて、自分の命と地球・宇宙の命との関係性に気づき、今、問題に見える様々な出来事の解決が自然と生まれてくるのではないか?

かつて釈迦は、全ての地位や財産を捨てて、旅に出た。そして悟りを開いた。
方法は違うかもしれないが、世界的な宗教者たちも、根本的には、同じ悟りにたどり着いてきたのではないか。

しかしその悟りとは、特別に、宗教というカテゴライズされた一部の人間のものではなく、まさに“わたし”の悟りなのではないか?

そんなことを考える昨今です。


追伸。
で、舛添氏と何の関係があるかというと、
おそらく全ての人間は“舛添氏”的な性分を持っていると思う。
舛添氏についての報道を、舛添氏を攻撃する意味合いで見るのではなく、自分の中の“舛添氏”的性分として見つめてみる。
そういう事象を通して、自分を見つめ直し、自己の言動を修正し、自己を確立していく。
そういう肥やしにするために、舛添氏は存在してくれていたに違いない。
そして“わたし”が“自分”が成長したぶんだけ、私の周り、あなたの周りの民主主義が向上する。
そういうことを映し出してくれる鏡でもある。

(ひろし)


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