2016年6月28日火曜日

ガマンはシゴトではない。シゴトとは、対策を講じること。

件のペットショップの張り紙の件で、当事者が、迷惑な客のことを、「ガマンを重ねていました」と書いていた。

“おもてなし”の本質~オモテではニコニコ、ウラでは客を罵倒する日本の接客業。①

しかしこの事例でもわかるように、仮に店に迷惑な客が来たとして、その迷惑な行為を止めてほしいと思ったとしても、“ガマン”だけでは、ほとんどの場合、何も解決しない。
それが止めてほしい行為なら、“ガマン”する前に対策を講じるべき。
対策も講じることなく、ただただガマンを重ねると、爆発したときのエネルギーも大きくなる。(客を罵倒するときの口調が激しくなる。)
そうならないためにも、早めの対策が望まれる。

客の迷惑な行為は、店からすると、店側に何らかの工夫・対策が迫られているというメッセージでもある。

客に文句を言う前に、店で対策を講じましょう。
十分に対策を講じてもなお、迷惑をもたらす客には、正社員がキチンと対応しましょう。
出入り禁止の宣告とか警察に通報するとか。

(ひろし)

“おもてなし”の本質~オモテではニコニコ、ウラでは客を罵倒する日本の接客業。③

日本の接客業は、ほとんどの場合、最前線で接客しているのは、雇われのパートやアルバイトだ。
彼らの仕事は、マニュアルを守ることだ。マニュアルにない想定外のことに、自分の判断を勝手に持ち込んだら、責任をとらされる羽目になる。

だから、経営者は、パート・アルバイトが責任を担える部分(マニュアルの内側の部分)と、担えない部分(マニュアルの想定外の部分)を明確にし、担えない部分は、正社員や経営者がキチンと対応するべきだと思う。

しかしそれをしていない経営者もかなりいる。いい加減なマニュアルでバイトに仕事をさせ、客からクレームが来ると、バイトを責める。ウラではそんな店や会社は、かなりある。気に入らなければ、去るのみ・・・

お宅の会社、どんなですか?

それで、(ひろし)の経験で言えば、悪質な場合を除き、客からのクレームの中には、客の“誤解”や、店側のルールが客に十分に伝わっていない場合がほとんどだ。だから、店側が、クレームが来る前に、“ウチの店のルール”はこうですよ。と、キチンと客に伝える義務がある。

最近の携帯ショップなんかがいい例だ。客としても、面倒だが、キチンと店員の話を聞いて、理解しないと、スマホとか契約ができない。そういうふうに行政から指導が来ているからだ。

他の業種でも、本来なら全ての店でそういう手続きが必要なのだろう。
しかし、経営者も客も、面倒なので、それをしない。
だからクレームも来る。結局、悪循環。

別の言い方をすれば、日本は“クレーム”天国。少しでも、納得のいかないことがあると、遠慮なくクレームを言うべき。なぜなら、経営者も経費削減で、商品の質や接客の質やが下がっていることは十分に分かっている。それにガマンできる客は何も言わないが、ガマンできない客には、それなりのフォローをしてくれる。

もし貴方に、クレームを言う時間があるならば、納得がいくまでクレームを言いましょう。

ただしそのウラでは、店員が貴方の悪口をいいまくっているということも、肝に銘じておきましょう。

これが日本のおもてなしの本質です。

(ひろし)

追伸、
こう書きましたが、そうでない本物のおもてなしをしてくれるところもあると思います。
しかしそういう所には、庶民はなかなかいけません。

“おもてなし”の本質~オモテではニコニコ、ウラでは客を罵倒する日本の接客業。②

2020の東京オリンピック招致に成功したもんだから、その時のプレゼンで、“お・も・て・な・し”などとやったもんだから、日本人も、日本人以外も、本質が見えなくなってきている。

接客業のパート・アルバイトなんかやったことのある人は、経験があると思うけど、“おもてなし”なんて、表面だけだ。ウラに入ったら、家に帰ったら、“こんな非常識な客が来た・・・”などと、客を罵倒することは日常茶飯事。

で、なんでこうなるかというと、“おもてなし”なんて、しょせん経営者のキレイゴト。スローガンにすぎない。それを実際にやらされるのは、最前線のアルバイト。非常識な客が来たときに、対応させられるのは、アルバイトなのだ。

アルバイトは雇われだから、いかなることがあっても、笑顔を絶やしてはならない。客を怒らせてはならない。クレームが出るような対応をしてはならない。

中にはウ沢富美男みたいに、コンビニの店員がマニュアル通りに仕事しているのに、自分の常識を押しつけて、困らせるような人もいる。それを自慢するし。

(ひろし)的には、そういう困らせる客(マニュアルの想定外の客)が来たら、正社員なり、経営者なりが前面に出て、対応すべきだと思う。それをしない店が多い。だからバイトがオモテではニコニコしていても、ウラで文句タラタラ。本来なら、経営者に対して要望すべきだが、クビがこわくて、経営者には何も言えない。言ったところで、何も変わらない・・・

日本の接客業にはそういう構造的なウラがある。

これが日本の“おもてなし”の裏側なのだ。

(ひろし)

まあ、接客業のバイトなんかは、一度は経験してみるといいかもしれない。店の裏側がわかって、世の中の視野が広がるよ。www

“おもてなし”の本質~オモテではニコニコ、ウラでは客を罵倒する日本の接客業。③

“おもてなし”の本質~オモテではニコニコ、ウラでは客を罵倒する日本の接客業。①

ほら、出てきた。

当事者のツイッターより。

実はあの託児所のは、私が書きました(ニオイの方は社長です)。この日、ハムスターのケースを片っ端から開けてまわる兄弟がいて、1匹が脱走して踏まれました。この日までガマンを重ねていましたが、小さな命がついに犠牲になったため、賛否両論覚悟で書いたものです


この中に、


“この日までガマンを重ねていました”とある。

つまり、子どもたちの行為(ハムスターのケースを片っ端から開けてまわる兄弟)を“ガマン”ととらえていたのだ。

(ひろし)だったら、まずは、子どもたちだけでケースを開けられないように、外からカギをするとか、子どもの手が届かないように、カゴに近づけないように柵をするとか、工夫をすると思う。そうすることで、最悪の事態は避けられたと思う。

張り紙だけで、非常識な客がいて、店が迷惑しているみたいな書き方は、いかがなものかと思う。

例えば、「親御さんとご同伴でないお子様は、こちらのコーナーはご遠慮下さい。」とか、で、いいんじゃないかな。

と、(ひろし)なら思う。

でも、この店はこの店のやり方があるから、店の責任でやっているんだから、それはそれで尊重されねばならない。

そういうやり方に賛同する客がその店で買い物して、賛同しない客はその店には行かない。

それでいいと思う。


臭いから“臭い”と言って、何が悪い?

“常識”は、人によって異なる。
オトナの常識、子どもの常識。
オトコの常識、オンナの常識。
警察の常識、ドロボーの常識。
センセーの常識、生徒の常識。
日本の常識、アメリカの常識。
江戸時代の常識、今の常識。

様々な考え方があってこそ、人間社会。
だから、店の“常識”を文字化し、その“常識”を認められない人は出入り禁止にするのは正解。
客商売でよくあるのが、店員は表向きは“笑顔”が強制されているから、何でもニコニコするけど、
ウラに入ると、客の悪口を口汚く罵るというのはよくあること。日本は“おもてなし”とか言うけど、ウラでは悪口ばかり。
中途半端にニコニコするよりわかりやすくていいと思う。

小倉智昭氏が「注意書き」に苦言「常識の判断で分かる時代ではないのか」

で、写真の張り紙。

ペットショップで、臭いから“臭い”と言って、何が悪いのか?
あまりにも臭かったら、気分が悪くなろうが、でも、鼻をつまんではいけないのか?

こんなシチュエーションを想像すると、親は動物に興味はないが、子どもにせがまれて渋々ペットショップに連れて行かされた・・・そんな場面を想像する。

自分(=親)が好きでペットショップに行ったなら、臭いとは言わないと思う。

で、店の人も、臭いと言われて、何が気に食わないのか?
自分が好きで臭いものを扱っているのではないか?
オトナが言うからいけないのか?子どもならいいのか?

家でペットを飼うかどうかを決めるのは親が決めるのだ。
親が“臭い”という親は、普通は臭いペットは飼わない。何も飼わないか、臭くない金魚とか飼うと思う。じゃあ、それでも子どもが臭いペットを飼いたかったら、親を説得させないといけない。親が子どものペットを反対する理由は、最後まで面倒を見ないから、結局親が見ないといけなくなるから。だから反対する。臭いペットが嫌いな親なら、なおさらだ。

そういう親とのバトルを経て、はじめて臭いペットを飼うことができる。親が臭い臭いという親は、臭いペットは飼いたくないのだ。だから臭い臭いと言う。

そこんところを店の人も分かった上で、親を説得するか、子どもをけしかけるかして、何とか売らないといけない。

臭い臭いという親に、「臭い言うな!」という前に、「臭いペットでもこんなにかわいいよ」、とか、「家だったら、ショップと違って密度が小さいから、臭いはそんなに気になりませんよ。」とか、「臭い対策は、こうしたらいいですよ。」とか、何とか説得すればいい。

それが商売だと思う。

ただ、これは(ひろし)の考えであって、張り紙をする店は、それはそれで、店の考え方が良くわかっていいと思う。こういう張り紙がしてあるペットショップでは、(ひろし)は臭いペットは買わない。

それと、“父兄”ってのは、今は非常識なんだけど・・・

(ひろし)

“おもてなし”の本質~オモテではニコニコ、ウラでは客を罵倒する日本の接客業。①

2016年6月25日土曜日

大学での【奨学金】をどう考えるか?

先日、“奨学金”は返しましょう。という記事を書いた。

【奨学金】借りたお金は返しましょう。返せないお金は借りてはいけません。 大学でそんなことも習わなかったの??

では今議論されている、返還義務のない奨学金・大学の無償化についてどう考えるべきなのだろうか?

(ひろし)的には、大学での授業料を、国と個人とで折半するというのはどうかと思う。

加えて、大学を社会人教育の場ととらえるならば、何も、高校を卒業してすぐの年齢からだけを学生とするのではなく、一度就職した人や、結婚・子育てを経験した人、職をリタイヤした人も含めて、全ての国民が一生涯“学ぶ”という観点から、参加できるという仕組みがいいと思う。
例えば、決まったプログラムを、決まった期間に履修するという考え方ではなく、単位制のように、学びたいプログラムを、何年かけてでも、じっくりと学べるような制度が望ましいと思う。

つまり、年齢に関係なく、希望する人が、希望する社会人教育プログラム(大学教育)に、国と折半で参加できる。そいういう制度がいいと思う。

そうすることで、奨学金の公平性も保たれると思う。

(ひろし)

それでは、大学は何を教えるべきか?

大きい意味で言えば“社会人教育”。

1,小中高の学び直し。

自分の子供たちの教科書や教材を見てみると、僕らの時代に習ったことと変わっていたりする。
また、習ったはずの内容でも、十分に身についていなかったり、誤理解だったりする。
そういう内容を、再度学び直すことは意味があると思う。

(例)中学の英語をマスターするだけで、随分と英会話の力になる。

2,ビジネスに関する最新の知識やスキルを学ぶ。

高校の学習内容だけでは、今の社会では不十分。
ビジネスに関する考え方やスキルは、日進月歩。そういう具体的なスキルを学ぶためにも、社会人教育は必要。

3,コミュニケーション能力の向上。

会社の中でも、起業でも、家庭でも、自分以外の人間とのコミュニケーション能力は必須だ。
自分の言いたいことを、正確に表現・主張し、相手の主張を正確に理解する。
この基本的なことがなかなかうまくいっていない。だからバトルが勃発する。日本人は、外国語に目を向ける前に、まず日本人同士の、日本語によるコミュニケーション能力を、もっともっと向上させる必要がある。

4,3と同時に、国際言語の習得。(先の記事)
  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓

5,“オトコ”のこと、“オンナ”のことをキチンと教える。習う、学ぶ。

人間が子孫を残すためには、異性との交流が不可欠だ。
しかし、なぜか、異性との交流は、特定の、もっと言えば、ただ一人の相手としか、健全とはみなされない。複数の相手と交流していると、不健全だとのバッシングを受けてしまう。

今の社会では、ごく少数の異性との交流で、自分にふさわしい配偶者を見つけ、一度配偶者と認めたなら、やり直しはほとんど許されない・・・そんな風潮すらある。

であるならば、異性について、もっともっとしかるべきところでレクチャーをするべきだ。

(ひろし)も残念ながら、離婚を経験した。
いまから思えば、全くの勉強不足だったと思うし、それがゆえに、相手に非常に迷惑をかけたし、失礼だったと思う。もっともっと、だれか、人生の先輩達が、もうちょっときちんと教えてくれていたら、もう少しキズが浅くて済んだのではないか・・・という思いが拭えない。

この類の苦い経験は、若い人達には絶対にしてほしくない。


6,家庭、子育てについて。
5の記事とも関連するが、人間の基本単位である家庭をどう経営・運営していくのか、キチンとした方針のもと、男女が協力できる態勢が望ましい。

7,最後に、
これらの内容は、やっぱり大学教育ではない!と言う方もおられるかもしれない。ならば、大学という場ではなくとも、某かの場で、社会人教育として、学べるようにしてほしいと思う。

未完(ひろし)

追伸、この原稿を書きながら、自身の国語力の未熟さを痛感しています。みなさまには、意味が分かりにくいことも多いかと思いますが、何とぞ、みまもっていただければ幸いです。そして、ご遠慮なくご意見など頂ければ、補足説明など、追加できるのではないかと思っています。よろしくお願い申し上げます。

イギリスのEU離脱に思う。~“イングリッシュ”が世界を統合へと導く。

今回のイギリスのEU離脱は、(ひろし)的には非常に残念だ。

もともとEUが誕生した背景は、第二次大戦でヨーロッパ同士が争い、戦場となり、悲惨な殺戮と破壊が行われたことを反省し、二度とこのような悲惨な事態は招くまい、という思想からだったはずだ。つまり、平和のためには“分断よりも統合”の方がふさわしいという思想からだったはずだ。

それが、イギリスがEUを離脱すれば、他の国にもドミノ式に離脱の思想が拡散し、結果、EUの崩壊すら招きかねない情勢だ。そういう意味でも、統合の流れが止まることが残念だ。

それでは、統合をなしとけるには、一体なにが必要なのだろうか?

それはコトバではないかと(ひろし)は考える。

統合を妨げるものは、国とか民族とかの文化の違いが大きい。その文化を理解するには、コトバの壁が大きい。コトバが理解できないので、文化もイマイチ理解できない。表面ではない、内面的な部分がどうしても理解できない。

アメリカなどでも、他国から多くの移民を受け入れているが、移民達が英語によるコミュニケーションがうまくいかず、せっかくアメリカで成功を夢見ても、ビジネスどころか、文化的にも馴染めずに、それぞれの出身地ごとにコミュニティを作っているらしい。
このこと自体は、アメリカ人からすれば、異質な文化を体験できる観光地だとすれば、それなりの存在価値もあるのだろう。
しかし、異文化の融合という観点からは、決して望ましいとはいえない。
日本人がアメリカに移民した場合は、比較的社会に溶け込み、日本人だけのコミュニティを作らない、という指摘があった。これは、統合という観点からすれば、好ましいことだろう。

今世界では、EUに限らず、統合か分断か?が争点になっている。

ひろしの理想は、最終的には世界がゆるく統合されることだ。そのためには、世界で通用する共通の言語が欠かせない。

その世界言語は、英語(イングリッシュ)がふさわしいと(ひろし)は思う。

今世界では、かつての“英語圏”という考え方ではなく、“ワールド・イングリッシュ”という考え方が広がっている。
例えば、インドの人が英語を学び、それをビジネスに使う。決してネイティヴの英語ではないが、それはそれとして認める。
インドだけでなく、中国でも、中国人が英語を学び、それをビジネスに使う。もちろん、決してネイティヴではないが、それはそれとして認めていく。
そういう流れが世界で広がると、もともとのネイティヴの人たちも、“俺たちこそがネイティヴだ!”“ネイティブだけがイングリッシュだ!”だけでは済まされなくなってくる。

なぜか?
これからインドや、中国がインディアン・イングリッシュ、チャイニーズ・イングリッシュを使い始めると、人口的に圧倒的に大きなウエイトを占めるようになり、ネイティブもそれを無視できなくなる。(ネイティブも、インドや中国のクセのあるイングリッシュを受け入れざるをえなくなる)

そういう過程を経て、最終的には、世界中で、共通的な英語(言語=ネイティヴ・イングリッシュが多少修正されたもの)が形成される。そういう形が理想だと思う。

では、そういう流れを、ネイティヴの人たちはどう捉えているのだろうか?
こちらも、賛否両輪らしいが、ワールド・イングリッシュ派もかなり増えてきているとのこと。

EUの統合も、現状では、なかなか困難な道のりだろう。
世界の統合も、困難な道のりに違いない。

しかし、世界中がワールド・イングリッシュを指向していくようになり、ゆくゆくは、世界言語が形成されていく。

そういう理想を僕たち一人ひとりがイメージすることで、世界の統合(ゆるい統合)は、意外にあっけなく実現するかもしれない。

もしそうなると、イギリス人達のプライドも、満たされるに違いない。なにせ、イングリッシュですから。

ジョンレノンのイマジンには今更ながら感嘆させられる。

(ひろし)

2016年6月24日金曜日

【大学】「リメディアル(=やり直し)教育」は必要だ。

今の大学では、小中学校のやり直しをしているらしい。
「リメディアル(=やり直し)教育」と言うそうだ。

大学の小学校化が深刻…授業でbe動詞や単純な割り算、大学も定員割れ激増で必死

このリメディアルの是非が議論になっている。

(ひろし)はリメディアルは、賛成だ。

そもそも論になるが、「大学」とは何を学ぶところか?
という議論に還る。

元々の出発は、高校までの学問をさらに発展させ、専門的な内容を修めるのが元々の大学の使命だと思う。
しかし、明治時代や戦後の時期とは、今は明らかに変わっている。
何が変わったかというと、中学・高校時代にいい成績とは言えない人(偏差値が低い人)でさえ、大学に行きたいという人(ニーズ)が増加した、という点だ。

昔の固定観念からでは、「勉強もできない(偏差値が低い)のに、なんで大学に行くんだ・・・」という方も多いとは思う。しかし今の若者・その親は、入れる大学があるなら、社会人になる前に、行きたい・行かせたい、というニーズがかなり大きくなったということだ。

じゃあ、そのいわゆる偏差値が低い大学は、大学としての教育をしていないというかというと、そうでもないと思う。

実名を出すべきか出さざるべきか悩むとことだが、ここ福山でも、偏差値の低い大学(学部)がある。(ひろし)の知人も、その大学に進学したが、在学中は「『○○大学』“しか”入れなかった・・・」と自虐的に話していた。

しかしその彼も、卒業後は、一人前の社会人として活躍している。
他にも、(ひろし)が知っているその大学の卒業生は、みんな、社会ですばらしい活躍をしている。

そいういう人達(卒業生たち)を見ていると、福山にある「○○大学」は、随分とすばらしい教育をしていると思う。

元々、人間の評価を、“偏差値”という一つの物差しで測って、上下に並べることがナンセンスだということは、みんなうすうす知ってるはずだ。
やむを得ず、偏差値を利用する場面もあるだろうが、その場合でも、偏差値は人間を上下に並べる手段ではないということを念頭に利用しないと、本当の人間の評価が見えなくなってしまう。

福山にある「○○大学」のように、決して華々しい偏差値ではないが、卒業生が地域に根ざし、社会を支え、家庭を支えている姿をみると、自分の子どもも、希望するなら進学させてもいいと思う。

今の大学は、定員を確保するために、偏差値が低い高卒生を受け入れざるを得なくなっているのか。その偏差値の低い学生のために、リメディアルを実施していると言うことか。

それはそれで、ニーズがあるなら、それに応える教育を創造している大学も、すばらしいではないか。

さらには、“アクティブ・ラーニング”なども工夫されているようで、いいことだと思う。

もっともっと、偏差値だけに縛られない大学が出現してくれることを望む。もちろんそれには、大学の教員達の創意工夫や法令の修正も求められる。
どうしても“大学は専門教育”というなら、新たなニーズの学生(偏差値の低い学生)に、大学以外の勉強場所を提供すべきだ。

(ひろし)

2016年6月21日火曜日

【奨学金】で、思ったんだが、大学では教えないかもしれない・・・借りたカネは返しましょうと。

前回、

【奨学金】借りたお金は返しましょう。返せないお金は借りてはいけません。 大学でそんなことも習わなかったの??


て記事書いたけど、
ひょっとしたら、大学も、借金は返しましょうということを教えないかもしれない・・・

と思うようになった。

なぜかと言えば、
大学は、学生が来てくれてナンボだし、最近は定員割れの、経営困難な大学も多いらしい。
だから、奨学金でもなんでも借りて、とにかくウチの大学に来てほしい。

だから、奨学金が借金だと言うことをうやむやしにて、学生に悟らせず、「国がもっと補助すべきだ」などと言っている可能性はあるのではないか?

卒業はさせても、収入の少ない会社にしか“進路保証”できない。

そういう大学を卒業しても、借金を返す経済力もなく、返す気もなく、国が悪い・・・と言う。
そういう教育シカしていないんじゃないか???

弁護士も、カネ儲けだから、自己破産なんて、簡単に言う。
返せない人も、弁護士にたぶらかされて「あ・・・はい・・・」と言う。

※弁護士もカネ儲けだから、クライアントのためにやっているとは限らないよ。イマドキ、儲からない弁護士も多いらしいから・・・
気をつけろ!!

メデタイ国日本!!!( ● )

(ひろし)

2016年6月19日日曜日

「アンタに人間の上下をジャッジする権能があるのか?」~いろんな考えがあっても、いいんじゃないか?

ローズ氏、イチローへの“異常な対抗心”は8年前から不変

イチローがスゴイと思う人がイチローを支持し、
ローズがスゴイと思う人がローズを支持し。

それでいいんじゃないかな?

スポーツ選手は、特にプロともなると、命懸けでやってるわけだから、プライドは相当なものだと思う。だから、いろいろ意見があっていいんじゃないかと思う。

数字にはウラがあるもの。どっちが上とか、下とか、時には無意味なことも、

二人ともすっげー人なんだから、二人ともスゴイ。ただ、それだけ。
世の中、全ての人が、どちらか一方の同じ考えに統一されるという発想は良くないと思う。

こんな記事を読むと、「アンタに人間の上下をジャッジする権能があるのか?」と言いたい。


  ↓  ↓  ↓  ↓

松ちゃん、イチ快挙に否定的ローズ氏チクリ「人間のレベルは下」

(ひろし)

乙武氏の失敗と再起。

乙武氏も、自己の行為により、自爆した。
自己の価値観・正義感を外に問い、一定の支持は集めてはいたが、結局、自己(の未熟さ)を見つめることを疎かにしたために、自滅した。

もし彼が再起することがあるとするなら、
今一歩、自己を見つめ直すこと。他に向けた矛先を自分に向けてみること。
そうした中で、真の素の自分を見いだしたとき、新しい乙武洋匡として再生できるのではないか?

彼もまだまだ若い。優秀な人材だ。

再生した、新しい乙武洋匡氏を見てみたい。

(ひろし)

世界の民主主義は大丈夫なのか?~舛添氏辞職の見方。

舛添氏が辞職した。
世論の圧力によって、自公も動かざるを得なくなったということか?
次の選挙での影響を心配したのか?
では、選挙が目前になかったとしたら、同じ結果になったのだろうか?

なりゆきを見守っていると、
民主主義の素晴らしさを実感すると同時に、「日本の民主主義はまだまだ未熟だ・・」という思いも出てくる。

日本の民主主義の未熟さは、言い換えれば日本国民の未熟さともいえる。

国民が未熟だからいい政治家が出ない。

そういう意味では残念ではあるが、民主主義でない国に比べると、よっぽどマシだと思う。
以前、橋下氏が選挙で負け引き下がったとき、「民主主義はすばらしい」と言った。

国民が自由に意見が言えて、だからといって弾圧を受ける(殺される)こともない。

しかし一方で民主主義は、常に危うい側面も持っている。かつてのファシズムが民主主義の土壌から生まれたことも歴史上の事実だ。

ちょうどアメリカでも、大統領選挙のまっただ中だ。国論を二分する民主主義の解釈の違い。どちらの民主主義が真の民主主義なのか?

答えは出ないかもしれないが、私はジョンレノンのイマジンに答えがあると思う。
つまり、他人を攻撃する前に、自分を見つめてみる。自分の中にある理想をイメージしてみる。
そういう屹立した個人個人が集まったところに、真の民主主義があるのではないか?

これは何も、国家とか世界とか、大きな単位でのはなしだけではなく、家庭とか職場とか、身近な小さい社会でのはなしでもある。

小さな社会から大きな社会まで。社会が人間の集まりである以上、個々の人間の成熟度がその社会の成熟度を決める。

世界中の人間が、他人を攻撃する前に、自分を見つめてみる。国家とか立場とかという外的な要因を全て取り払って、素のままの自分という人間を見つめてみる。

そうしたときにはじめて、自分の命と地球・宇宙の命との関係性に気づき、今、問題に見える様々な出来事の解決が自然と生まれてくるのではないか?

かつて釈迦は、全ての地位や財産を捨てて、旅に出た。そして悟りを開いた。
方法は違うかもしれないが、世界的な宗教者たちも、根本的には、同じ悟りにたどり着いてきたのではないか。

しかしその悟りとは、特別に、宗教というカテゴライズされた一部の人間のものではなく、まさに“わたし”の悟りなのではないか?

そんなことを考える昨今です。


追伸。
で、舛添氏と何の関係があるかというと、
おそらく全ての人間は“舛添氏”的な性分を持っていると思う。
舛添氏についての報道を、舛添氏を攻撃する意味合いで見るのではなく、自分の中の“舛添氏”的性分として見つめてみる。
そういう事象を通して、自分を見つめ直し、自己の言動を修正し、自己を確立していく。
そういう肥やしにするために、舛添氏は存在してくれていたに違いない。
そして“わたし”が“自分”が成長したぶんだけ、私の周り、あなたの周りの民主主義が向上する。
そういうことを映し出してくれる鏡でもある。

(ひろし)


2016年6月16日木曜日

【奨学金】借りたお金は返しましょう。返せないお金は借りてはいけません。 大学でそんなことも習わなかったの??

今、奨学金が“返ない”ことが問題らしい・・・

奨学金を返せない 大学卒業から12年、生活の重荷に

こういう記事を読むと、
この人、大学で何を学んだんだろう・・・
疑問しか湧いてこない。

大学に行きさえすれば、人生なんとかなるとでも思ったのか?

もともとお金がなかったのなら、働きながら定時制・通信制高校とか、通信制大学で学ぶとか、放送大学などもある。他の選択肢もあったはず。
お金がなくて進学をあきらめた人もたくさんいる。みんなそれなりに生きている。

月14万円の収入で足りなければ、もっと給料になる仕事はあるはず。
高卒でも中卒でも、これ以上稼いでいる人はゴマンといる。
なぜそれをしない?

ダブルワークなどいくらでも方法はあるのではないか?
もしそれができなかったとしても、返済する方法はまだまだあるはず。

しかもそれをあたかも“被害者”のように報道するマスゴミ。

“奨学金”を返せない・・・などと書けば、なんか、お涙ちょうだいのストーリーに聞こえるかもしれないが、要は借金でしょ。パチンコにはまって借金とか、スポーツカーを買って借金とかと、どこが違う?

“自分のお金”?・・・そんなもの、ない人はゴマンといる。借金返すまでガマンしなさい。借りたカネが返せない・・・と言いながら、“自分のお金”をほしがる、その脳ミソそのものが貴方のビジネスの破綻です。
芸人になりたくて上京して、借金した人が、“借金が返せない”・・・とか、事業をはじめたくて借金した人が、“返せない”・・・“自分のお金が・・・”などと、愚痴るか???

何とか、返そうと、がんばるだろ。それが人生じゃないのか?それがビジネスじゃないのか?

大学に夢を見て、行ったんだろ。夢が叶ったかどうかはワカランが、借りたお金は返しましょう。

返せないお金は借りてはいけません。

大学でそんなことも習わなかったのか??親も忠告しなかったのか??

ま、そんなこと大学で教える内容でもないか・・・www。

(ひろし)

2016年6月9日木曜日

アベノミクスは失敗なのか?

選挙を目前にして、「アベノミクス」が成否が問われている。

「成否」と書けば誤解を生むかもしれないが、
要するに、100点か0点か?という議論にしてはならないと思う。

そもそも誰が、どの政党が政権を担っても、経済の興隆は困難な課題だ。
「100点でなければ政権交代」という論調はいかがなものか?

ではアベノミクスは何点なのか?50点?10点?70点?

もし「政権交代」を言うのであれば、具体的にどこが良かったのか?どこが悪かったのかをキチンと国民に提示して説得力のある説明にしてもらいた。

さらに、交代した政権が、つぎにどのような経済政策を行うのか?何も行わないのか?シナリオを明示してもらいたい。

(ひろし)

2016年6月7日火曜日

女子高生のノーブラ運動~校則で禁止するというよりも、親が娘に言い聞かせるという防衛方法がふさわしい。

記事の最後に、「今回の騒動について、あなたはどう思われるだろうか?」とあったので、(ひろし)の意見を述べてみたい。

女子高生がノーブラで登校 → 学校側から指導が入る → 生徒「なんでブラをつけなきゃいけないんだ」と怒りの運動が勃発

女性の中には“ノーブラ”など、衣服を着けないことも含め、“解放”ととらえている人もいる。この感覚については、賛同する女性もいるだろうし、男性はむしろ“歓迎”というところだろうか。

もし女性が性的な事件に巻き込まれたとき、ブラをしていなかったら、“ブラをしていなかった女性にも責任がある”という考え方は、やはり取るべきではないと思う。

しかしもし自分の娘が“ノーブラ”を希望したら、父親としては「ブラはつけるべきだ」と言うと思う。それはなぜか?

仮に自分に落ち度がなくても、犯罪に巻き込まれる確率が高まるからだ。

申し訳ないが女性の薄着は、オトコの性欲を増幅させる。これは本能だ。
しかしその本能を制御できないオトコはゴマンといるのも事実。ましてや、高校生の時期は、女性としてもっとも魅力的な時期。学校の中には未熟なオトコが多数いるし、街に出れば、性欲のもっていきようのない野獣がうようよしている。だから、可能な限り女性の方で防御することも必要だと思う。

だから高校生の時期は、学校が校則で禁止するというよりも、親が娘に言い聞かせるという防衛方法がふさわしいと思う。

万一、犯罪に巻き込まれたときに、「私には落ち度はなかった・・・・」と言ったところで、傷ついた自分の心と体は、そう簡単には癒やせない。

ひと年取って、性的犯罪の被害者になるというリスクを冒してでも、どうしても“解放”が主張したいなら、そのときに自由にすれば良い。

と(ひろし)は思うのですが、皆さんはどう思われますか?

なんならいっそうのこと、「80才以上は、性別を問わず全裸を認める」という法律を作ってもいいかもしれない。

(ひろし)