2016年12月17日土曜日
「相対的貧困」のどこが問題なのか?
NHK「貧困女子高生」報道へのバッシングは、問題の恐るべき本質を覆い隠した
これは文章がおかしいと思う。
正解は、
「世間からバッシングを受けるような番組を作ったNHKが、結果的に問題の本質を覆い隠すこととなった」
だと思う。
つまり、バッシングをする方が悪いのではなく、バッシングされるような番組を作ったNHKが悪いのではないか?
しかしそれも分かった上で、あの番組で登場した女子高生を「貧困」と呼ぶのは、それなりの政治的意図があってのことなのか?
そもそも、こちらの方のご主張、ちょっとわかりにくいところがあるんですが、
NHK「貧困女子高生」報道へのバッシングは、問題の恐るべき本質を覆い隠した
この人の記事を引用すると、
《引用》
「相対的貧困」とは、その社会において、平均的な暮らしを送ることができていないことを指す。たとえば戦争で焼け出された難民のように、食べるものや着るものに困窮している「絶対的貧困」とは違う。
病院に行けない、進学ができない、満足な学習を受けられない、友達と遊びに行けないーー。貧困状態にない人が当たり前に送っている、そんな生活が難しい人たちだ。
《引用以上》
つまり、“その社会において、平均的な暮らしを送ることができていないことを指す”と。
で、そもそも相対的貧困とか、決まった定義があるのか?この人が独自に作り出した言葉なのか?
「相対的貧困」とは、“「絶対的貧困」より少し上の層”ということか?
この人の定義を基準にすれば、(ひろし)的には、「絶対的貧困」には何らかの公的支援が必要だが、「相対的貧困」にはさほど公的支援が必要ないのではないか?つまり、財政にゆとりがある場合は、もちろん支援できようが、財政にゆとりがない場合は、少しずつ削減される可能性のある部分という意味。
もともと“相対的”と言っているように、景気の波の中で、その基準は変わっていくのでしょう。景気の波に影響を受けるのは、自由経済の法則です。その波をいかに乗り越えていくかが、自由経済下での経済活動です。その過程で、波に乗る人、波に呑まれる人、様々な生き様があるのが自由経済です。
そこを前提にする限り、「絶対的貧困」層以外の部分の生活向上を公的に支援すべきという考え方は、基本、“共産主義”的な思想でしょう。
(もちろん共産主義も、国民に幸福をもたらすのであれば、排除される選択肢ではありません。)
ということは、結局この人の主張は、日本の財政の一部を、「相対的貧困」層にももっと分配すべきだということなのでしょう。ということは、財政全体の収入・支出を議論しなければなりません。この方はそこの所をどうしようとしているのでしょうか?
何処の国も家庭も、財政は基本の思想です。生きる糧をどこから得て、どう使うのか?
財源にゆとりがあれば、何だってできますが、今の財源では中々厳しいのではないでしょうか?
財源を語らずに“福祉”を求めるのは、どこぞの三流政治家でしょうか?
・・・さて、財源をどうしますか?
(つづく)
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