五輪のエンブレム問題がまだ尾を引いているみたいですので、この際、(ひろし)の主張をお披露目させて頂きたいと思います。
“パクリ”と一言に言っても、いろんな種類があると思うのです。
簡単に言えば、「許されるパクリ」と「許されないパクリ」(法的な話ではありません)
で、(他の事案は抜きにして)今回の佐野エンブレムが「許されるパクリ」なのか「許されないパクリ」なのかに絞って言えば、(ひろし)は「許されないパクリ」だと思う。
その理由は、
1,(ひろし)は、佐野エンブレムは、パクリだと感じる。
2,多くの人がパクリだと感じた。
3,原作者がパクリだと感じた。
4,日本のデザイン業界は佐野氏を支持するコメントを発表したが、世界のデザイン業界は同じ歩調は取らなかった。
5,オリンピックは、単に日本国内のイベントではなく、世界的なイベントなので、世界の人から支持される(疑念を抱かれない)必要がある。
特に今回は、オリンピックというフィールドの中での出来事だったので、5,の世界の人達の支持は欠かせない。
もし佐野エンブレム(的なデザイン)が、オリンピック以外の場面で発表されていたのなら、ここまで大きな問題になっていなかった可能性はある。
ビートたけしがパクリを擁護する発言をしたそうだ。
ビートたけしがパクリ批判の風潮に疑問「映画だって全部パクリになる」
たけしが個人的に作品を作る場合は、様々なパクリ的な要素は、許容される可能性は十分にある。現に映画の分野などでは世界的に評価を得てきた。
しかし、ビートたけしといえども、例えば“国旗・国歌”をデザイン・作詞作曲するとなると、やはり“パクリ疑惑”は許されないはずだ。
つまり、作品を発表する“場”によっても、パクリが許される場合と許されない場合がある。
そういう意味でも、“オリンピック”という“場”でのデザインなどの創作物は、個人や日本国内的な価値観だけでなく、世界の人々に許容されるものでなくてはならない。
だからこそ、デザイナーの仕事のレベルも、世界レベルで“金メダル”が取れるレベルが求められるのではないか。
今回の佐野エンブレムは、残念ながら、5の国際的な視野が欠けていたのではないか?
日本国内のデザイン業界の内向きの理屈に満足してしまって、世界に開かれた視点が欠如していたのかもしれない。
そういう意味で(ひろし)的には、佐野氏を非難する気持ちより、残念な気持ちでいっぱいになるのだ。
(ふくやまひろし)
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